石見銀山の価値

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鞆ケ浦道 港湾

石見銀山の銀鉱は、1527(大永7)年に、商人の神屋寿禎が付近の沿岸を航行中に陽の光に輝く山の頂に気付いたことから、発見されたと伝えられています。

博多(現在の福岡)に本拠を構えていた寿禎は、この地を支配していた大内氏にその事実を報告しました。大内氏は、すぐさま、この“富の山”を支配下に収め、石見銀山で採掘された銀鉱石を博多へ運び、さらに朝鮮半島に輸送して精製を行うために最も近く適した入り江である鞆ケ浦に港を設け、日本海の荒波や厳しい北風からの防御を図りました。

あわせて、石見銀山からこの港までの間に7.5キロメートルの道を整備し、丘陵地帯を越える土橋を建設し、重い荷物の運搬に適した道をつくりました。しかし、この道や港が銀のためつかわれたのは30余年の間にすぎず、1562(永禄5)年に毛利氏が石見銀山を領有すると、沖泊へと移ったのでした。鞆ケ浦の最盛期を偲ばせる存在として、岩石を削って船の係留装置として利用された鼻ぐり岩が残ります。