石見銀山の価値

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三宅家

江戸時代、三宅家住宅は武家の田邊家の居宅でした。石見銀山の初期に数多くの重要な行政職を担った田邊家は1601年、初代銀山奉行の大久保長安が田邊彦右衛門を登用し、以後、鉱山政務の役人として働くことになりました。彦右衛門は徳川氏に銀山の支配権が渡った後に鉱山経営のために雇われた最初の専門家たちの一人でした。その新しい同僚たちの多くと同じように、彦右衛門も石見の出身ではなく、もともと甲斐の国(現在の山梨県)に暮らしていました。被官により一族は石見周辺に落ち着き、鉱山管理の専門家となったのです。田邊家はのちに、石見の銀が江戸に送られる前に押された刻印を管理するまでになりした。これは非常に栄誉な仕事でした。

 

田邊家の居宅は1800年に大森のかなりの部分を焼失させた火事で焼け落ちましたが、間もなく再建されました。建物は三宅家住宅として残り、この住宅が1974年に県の史跡に指定された時の持ち主の名前から三宅家住宅と命名されました。建物は大幅に改装されているものの、家と通りの間にある庭、庭を囲む立派な塀、三つ巴(3つのコンマのような形から成る渦巻模様で、水を表し、火事から守ってくれると信じられていました)が施された桟瓦葺など、1800年代始めの武家屋敷の特徴を多く保っています。三宅家住宅は現在、一般公開されていません。