石見銀山の価値

[石見銀山とその文化的景観] 世界遺産に登録された理由

2007年に石見銀山がユネスコ世界遺産に登録された理由は次の3つです。
①「16世紀から17世紀初頭の石見銀山が世界経済に与えた影響」、②「銀生産の考古学的証拠が良好な状態で保存されている」、③「銀山と鉱山集落から輸送路、港にいたる鉱山活動の総体を留める」ことです。

世界経済に影響した石見の銀

石見銀山で採掘された銀は、1500年代中ごろ以降、世界経済に大きな影響を与えました。当時、石見銀山を支配していた戦国大名たちは、海外との交易にこの銀を利用しました。その理由は、中国(当時は明)では、北西より侵略してくる蒙古に対する防御資金を賄うため銀で税金を納める制度をつくり、大量の銀を必要としていたからです。
日本からの銀は当初、直接中国に流入していましたが、この貿易の主導権はすぐにヨーロッパ人の手に渡ります。マカオを拠点とするポルトガルの商人が東南アジアで生糸を買い、それを日本で銀に交換して中国に運び込んだのです。この交易は、ポルトガル人に莫大な富をもたらし、ポルトガル人は日本のことを「銀山の王国」と呼び、日本の銀はポルトガルの海上帝国全域で流通するようになります。推計では、1500年代後半に世界中で取引された銀の総量のうち、少なくとも10%は石見銀山のものであったとされています。こうした交易は、江戸幕府が鎖国する1600年代初頭まで盛んに行われました。

伝統的な銀生産の遺跡

石見銀山は、1527年から1923年まで稼働していました。採掘装置や採掘手法が近代化されたのは、日本の鎖国がとかれた1800年代後半のことです。近代化された鉱業技術での再開発が行われましたが、1923(大正12)年には事実上の閉山を迎えます。その結果、石見銀山には、伝統的な採掘、製錬、精錬の考古学的証拠がそのままの状態で残されました。
坑道、生産設備、集落の一部では発掘調査が行われ、当時の技術や鉱山労働者とその家族が送った生活の様子を理解することができますが、仙ノ山の木々に覆われた斜面や谷には、今もなお多くの遺跡がほとんど手付かずの状態で残されています。

全体像を留める

石見銀山遺跡—鉱山跡、街道、港、城その他の要塞や支配の跡、住まいの場所、宗教の遺跡—は、鉱山活動の有機的な総体としてその姿を残しています。坑道や立坑の一部は中に入ることができ、銀山から日本海へと続く街道は歩くことができ、そして大森町ではこの地で財をなした商家の旧宅などを訪れることができます。
これらの史跡が一体となって、中世から1920年代までの鉱山を中心に成立した鉱山活動の物語を今に伝えています。これらの史跡は、時間の経過と共に鉱山がいかに拡大し、各時代で異なる目的を達成するために変化していったか、鉱山とその周りにいかに独特な地勢を発展させていったか、そして石見銀山で銀の採掘が行われた400年間、その運営がいかに進化していったかを明らかにしてくれます。

石見銀山と海外とのつながり

石見銀山は、その400年の歴史の中で、国際社会に関わった時期が2回ありました。最初は、1527年の鉱山の発見から1600年代初頭まで続く時期で、2回目は、明治時代の日本の急速な近代化の時代です。

大航海時代の銀

スペインとポルトガルの帝国が世界貿易を拡大した1500年代、銀は世界で最も需要のある商品となりました。メキシコのグアナファト、ボリビアのポトシ、そして石見銀山などで採掘された銀は、世界経済の潤滑油となります。石見の銀は、主にポルトガル人の手で取引されます。彼らが中国(当時は明)で生糸を購入するため、多くの銀が明に持ち込まれました。1500年代後半に世界中で取引された銀の総量のうち、少なくとも10%は石見銀山のものであったと推測されます。これを可能としたのが、国際交易のもうひとつの産物である灰吹(はいふき)法でした。これは銀の精錬方法の一種で、1533年に朝鮮半島から石見銀山に伝わり、高純度の銀の大量生産を可能としたのです。ところが、徳川家が天下を統一し、江戸幕府を樹立した後は、石見銀山と世界経済とのつながりが途絶えます。徳川家は、外国との接触を制限する鎖国政策を採用して、これが1800年代後半まで続きます。

植民地とのつながり

日本は、1868年の明治維新以降、再び外の世界に目を向け始めます。日本は、日清戦争(1894~1895)で勝利した結果、台湾を含む中国の領土を獲得します。当時、石見銀山は藤田組によって管理されていました。藤田組は1886年に銀山の採掘権を取得し、国内の他の地域でも複数の鉱山を経営していました。ところが、所有する鉱山は採算性が低く、藤田組はひどい経営難に陥ります。1896年、新しく獲得した植民地の開発に熱心だった日本政府は、台湾の有望な鉱山2か所に対する権利の割り当てを行います。藤田組は、このチャンスに飛びつき、台湾島北部の九份近くにある瑞芳の金銅鉱山の開発に乗り出しました。

石見銀山と台湾

藤田組は、台湾の保有地に巨額の投資を行い、採掘と製錬のために最先端の機器と技術を導入します。その一部は、石見銀山で開発されたものでした。石見銀山で技術を磨いた技師や多くの専門家が瑞芳へと派遣され、二つの鉱山間で積極的な人事交流が行われました。瑞芳は活気あふれる街へと成長し、1923年に藤田組が突如として台湾での操業を停止した際の危機的状況も乗り越えます。その年はまた、世界市場における銅価格の下落により、藤田組が石見銀山の操業停止を余儀なくされた年でもあります。
日本人による台湾での鉱山開発は、九份に近い金瓜石の金鉱山で続き、1930年代に最盛期を迎えます。1935年の時点で、金瓜石は、同種の施設としては、大日本帝国内で最も生産性の高い施設であり、年間最大2.6トンの金を産出していました。操業は1987年まで続き、現在は保存区域に指定されています。新北市黄金博物館では訪れる人々に鉱山開発の歴史を紹介しています。