石見銀山の価値

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吉岡出雲墓

銀山川より遥か高くにある、木々に覆われた仙ノ山の丘の中腹には、17世紀初期に日本中で金銀の採掘を促進するのに重要な役割を担った人物の墓が一つだけぽつりとあります。和泉国(現在の大阪の近く)に生まれた吉岡隼人は、1562年から毛利氏の支配下にあった石見銀山で、採掘に携わる毛利氏の役人として働いていました。徳川家康(1543–1616)が1600年に石見銀山の支配権を得ると、家康は最も信頼する人物の一人であった大久保長安(1545–1613)を銀山の監視役として任命しました。優れた経営者であった大久保は、経営技術と銀脈を発見する能力が高い吉岡を採用したのでした。

 

大久保は吉岡に任務を与え、幕府が管理していたいくつかの鉱山へと送りました。その鉱山には伊豆(現在の静岡県)の銀鉱山や、佐渡島(新潟県)の相川金銀山が含まれていました。吉岡は素晴らしい成果を上げ、名声、富、そして「出雲」という称号を手に入れました。(出雲という名前は石見銀山の東に位置する国名です。)吉岡出雲が1614年に死去すると、その地域で最も名誉ある寺社の一つであった極楽寺にて埋葬されました。極楽寺はずいぶん前に無くなってしまっていますが、1813年に彼の子孫たちによって再び立てられた吉岡出雲の墓石は、かつて寺の墓地があった場所に残されています。