石見銀山の価値

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山吹城跡

石見銀山は、1527年に発見されてから17世紀初頭まで、戦国大名に支配されていました。

銀山は、武家間の同盟や対立が絶え間なく移り変わるこの時代に、何度もその持ち主が変わりました。これらの戦いの中心となったのが、標高414メートルの要害山の山頂全域を使って設けられていた山吹城です。大内氏が1530年代初頭に築いたこの城は、既存の要塞を転用して、狭い頂上を平らにして造られました。畝状竪堀とよばれる防御施設や、堀切に守られた縦長の主郭には集落側のみに誇示するかのような石垣が残り、攻撃を防ぐことを意図して作られたようです。

 

山吹城からは、銀山と集落、そして日本海の港、鞆ケ浦への道を何にも遮られることなく眺めることができました。そのため、山吹城を支配することが銀山支配への鍵となっていました。敵対する尼子氏と小笠原氏が何度か攻城しましたが、1562年まではいずれも長きにわたる覇権を手にすることができませんでした。1562年には、毛利氏が石見銀山を完全支配し、山吹城をさらに要塞化しました。山吹城では大きな戦いが繰り返されることはなく、その後石見銀山は、徳川氏に占領されました。幕府は大森に支配の中心を置き、山吹城は徐々に廃城となっていきました。

 

今、要害山周辺には居館の名残である石積みの土台が残っています。主郭の跡地は自然に戻っていますが、山頂の郭群も、その多くを確認することができます。美しい海岸線を見ることができるこの山頂へは、鞆ケ浦道の起点から1時間ほどの登山ですが、登山道の一部区間は登ることが難しいので注意が必要です。