石見銀山の価値

銀鉱山エリア

大森町並みエリア

街道・山城エリア

港と港町エリア

銀鉱山エリア

シェア:

昆布山谷集落跡

石見銀山の中心的な名所の一つである龍源寺間歩への出口から200メートルほど離れた所にあるのが昆布山谷です。石見銀山が16世紀後期から17世紀初期にかけて栄えると、丘の斜面一帯に大きな鉱山労働者のための集落が造られました。岩盤へと掘られた多くの坑道に近接した場所にある、平坦で階段状になった土地の上には、家々や銀を生産するための施設が建設されました。昆布山谷の集落は数世紀にもわたって持続され、明治時代までは人々が暮らしていました。集落がこれほど長く存続した理由の一つが、石見銀山付近にある仙ノ山の麓という比較的便利な立地でした。しかし、集落が低地にあったことは災いの元ともなりました。昆布山谷はしばしば洪水に見舞われ、時には深刻な被害を受けることがあったのです。

 

昆布山谷のなかほどには新横相間歩があります。新横相間歩は江戸時代(1603–1867)中頃に開発された坑道で、昆布山谷の鉱山労働者たちの創意工夫の証となっています。垂直に伸びる銀脈に届くように、新横相間歩は山腹に対して水平かつやや上向きの角度で掘られています。こうすることで採掘により出てきた地下水が流れ出すのです。従来の坑道は銀脈に対して並行して真っすぐ下向きの角度で掘られていました。しかし、そうした坑道は遅かれ早かれ水でいっぱいになってしまいます。こうした革新的なタイプの坑道を発明したことに加えて、昆布山谷の鉱山労働者たちは、その地域に埋まる銀が掘り尽くされると、銅の採掘を始めました。こうした取り組みは明治時代でも続けられました。明治時代に藤田組という企業が石見銀山の権利を手に入れると、近代的な鉱石の選鉱および製錬施設を昆布山谷に建設したのです。それらの機能は20世紀に入る頃に、近くにある柑子谷の地域へと移されました。こうして350年間近く採掘が行われてきた昆布山谷に静寂が訪れたのです。