石見銀山の価値

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柑子谷と永久製錬所

現在は、ほぼ自然に還ってしまっている柑子谷も、わずか1世紀前には鉱山活動が盛んに行われ、その中心となったのが永久坑です。永久坑はもともと1693年から1787年の間に、さらに標高の高い複数の採掘地からの地下水を谷底の柑子谷川へと導く排水坑の一部として掘られたものでした。明治時代に大阪を拠点とする藤田組が石見銀山の鉱業権を取得するまで、永久坑と残りの鉱山も、数十年にわたりほとんど休眠状態となっていました。藤田組は多額の投資を行い、既存の坑道を拡張し、大量の鉱石を取り出すためにダイナマイトを使用するなど、最先端の採鉱技術と機器を導入します。永久坑もその対象となり、1899年には、豊かな銅鉱脈である内中瀬鉉の発見という成果をもたらします。

 

この画期的な発見により、藤田組は1902年、柑子谷に新たな製錬所を開設します。同施設では、最新の技術を導入し、銅を処理してインゴットを作り、それをさらに精錬するために秋田県北部の小坂に送っていました。柑子谷では山腹全体が切り開かれ、製錬所の周りには選鉱場1か所と石炭火力発電所1基を含むさまざまな構造物が立てられ、製錬所で雇われている人数は最盛期には数百人に上ります。永久坑は、深度300メートルに達するまで徐々に拡張されます。こうした柑子谷での藤田組の操業は、長年にわたる世界市場の銅価格低迷による大打撃で施設を完全に閉鎖することになった大正12(1923)年まで続けられました。

 

森林に覆われた谷地にある永久製錬所の遺構は、多くは残っていませんが、その佇まいの一端を伝えています。建造物は休山後に解体が進み、その敷地は昭和18(1943)年の水害で大きな被害を受けました。また、永久坑の入り口は1960年代後半に完成した堰堤によって埋没しました。煉瓦とコンクリートの基礎部分は、選鉱場の下にある段々状の土地を補強するために作られた壁を含めて、場所がわかれば今でも見ることができます。また、谷の内側部分には、仕事で命を落とした鉱山労働者たちのために大正2(1913)年に建立された供養塔が建っています。