石見銀山の価値

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銀山争奪戦

石見銀山が発見された1527年は、日本は地方の武将たちが同盟や対立を絶え間なく繰り返す戦国時代でした。石見銀山では、周防国南部(現在の山口県)に本拠を置く大内氏が最初に鉱山の支配権を握りました。大内氏は各地に城などの要塞を次々と築き、敵対勢力から富の山を守りました。 こうした要塞には、鉱山の主要要塞である山吹城、鉱山と温泉津港の間の道路を守っていた矢滝と矢筈の双子の砦、北西の海岸への要路を見下ろす石見城など、十数カ所の拠点がありました。1530年代から1540年代にかけては、小笠原氏や尼子氏が侵攻を繰り返し、大内氏がこれを撃退するなど、激しい戦いが繰り広げられました。

 

石見銀山での大内氏の支配は、1550年代に安芸国(現在の広島県)の強力な毛利氏がその影響力を北に広げたときに崩れ始めました。1562年には毛利元就(1497-1571)率いる軍勢がこの地を完全に支配し、さらに要塞化を進め、沖泊港の外に水軍基地を設置して、沖泊港からの銀の輸送と温泉津への補給路を守りました。1600年の関ヶ原の戦いで徳川氏に敗れるまで、毛利氏は、ほぼ40年間銀山を支配していました。その後、石見銀山は徳川氏に占領され、毛利氏は本州西端の長州に封じ込められ、銀山をめぐる戦いは終焉を迎えました。徳川家康は先頭に立って天下統一を目指し、1603年には江戸幕府を樹立、1867年まで日本を統治しました。