石見銀山の価値

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鞆ケ浦道 山吹城登城口

石見銀山と鞆ケ浦港を結ぶこの7.5キロの道の始点は、16世紀後半には銀山全体の中心地でした。鉱山集落として知られるこの場所は、銀山の監督を行う役人が拠点とする管理施設が中心にありました。その近隣には、坑夫とその家族の住居、商人が物を売る商店、複数の寺院が建ち並んでいました。

この時代の銀山は、初めは大内氏によって支配され、大内氏が鞆ケ浦道を作り、集落のすぐ外側の高地に山吹城を造りました。この丘の上に建つ要塞は、絶えず同盟・敵対関係が変化する時代に、敵の侵略から銀山を守る役割を果たしました。

大内氏は、1562(永禄5)年、敵対する毛利氏の手によって、この要塞、さらに最終的には銀山自体の支配権を失いましたが、山吹城と山内集落はその後40年間にわたって鉱山支配の中心でした。1600(慶長5)年に石見銀山が徳川氏の手に落ちて以後、徳川幕府により、大森に管理の中心地が移りました。現在の山吹城には、石造りの建物の基礎部分のみが残ります。しかし、鞆ケ浦道は今でも歩くことができ、400年以上前に鉱石を運ぶのに要した労力を思い描くことができます。